イラショナルビリーフ



ひとには独自の物語があって

その物語の歴史上に起こった出来事に

もともとの 意味 はなにもないのだけれど

その時に どんな色眼鏡をかけていたかで

きっと 意味 はかわるんだ



わたしは学生の頃から
場面緘黙(※)や パニック発作や OPP(お腹ぴーぴー)
などがあって  学校や社会にいずらかったのですが


今となれば こんなふうに
その時の症状に診断をつけられるのだけれど


そんなことわからなかった当時は


わたしが変なんだ
なんで普通にできないんだ
生まれつき出来が悪いんだ
ひとより劣ってるんだ
自分以外の誰かになりたい


こんなふうに考えてしまっていた




なんてことを思っていたのでしょう







今の視点から 見てみると


適応できないんじゃなくて
無意識で適応しないとゆう選択をして
自分らしさを守ろうとしていたのでは


適応できないんじゃなくて
同調圧力に屈しない  自分らしさがそこにあったのでは





社会的に見て出来が悪いから劣っているなんて
そんなのただのちっぽけで見当違いな思い込みで






そのひとの ありのままの魂が

そのひとの経験した苦悩が  想いが  氣付きが

宇宙の進化のプロセスにきっと必要なのだ





ひとが計ることのできない 

想いもよらないような ひとの存在意義があるような気がする







自分はダメなやつ   劣っている  価値の低いやつ



過去の物語の中で こんな色眼鏡をかけてしまって


自分に 否定的な意味しか見出せなくて



今 それはもう ただの思い込みだって  頭では理解しているけれど







心の底には 恐怖と不安が

劣等感や否定的な自己イメージが深くこびりついていて

またあんなふうに 傷つくのが怖くて いつまでも



人生の可能性を開けない






もっと自由にのびのびといたらいいじゃない


もったいない











からだによくない 自分の心を苦しく縛る まちがった思い込み

非理性的で 分別のない 非合理的で 見当違いな!


それは 自分の心の中から自然に湧き出たものではなくて

外側から入り込んできたもの






そこから自分を守るために現れた 

傾向と対策

その意図を汲み取らないで

今でも行動できない自分を 意志薄弱なやつだなんて批判して

さらに自分を痛めつけるとゆう悪循環は断ち切らなくては 







恐れや不安とゆう感情の力は 

アタマでの理解や意思をかんたんにひねりつぶしてしまう




心に浮かぶ思考を あまり真剣に受け止めない事


自動的に浮かんでくる セルフイメージを疑うんだ






ひとが地球にくる目的は

愛を学ぶこと    ひとの役に立つこと   なんですって


いろいろな感情を持っている自分をひっくるめて 

あたりまえに愛せることが なにより大切





だいぶ遠回りしてるけど

こんな自分でも愛せますか? と進級試験を受けている気分




だから最近は どんなに目をつぶりたくなるような自分にも
オーケーしているんだ




一昔前は

「こら! またこんなにピーナッツ食べよって!」

「勉強に身が入らんのはお前が怠け者だからじゃ!」

「ばかもん!ダラダラしおって  シャキッとせい!」 


とゆう  わたしの中の波平さんが
(波平さん風にもう一度読んでみて  波平の声が聞こえてくるから)

常に 叱咤激励   罵詈雑言  自分を批判していたのだけれど



今は 

「ピーナッツおいしいね~  かりんとうもあるよ」

「気分じゃないときは 勉強なんてしなくていいんだよ ダラダラしよーよー」

「現状維持でもいいじゃない」

とゆう 小悪魔のようなちびまる子ちゃんが わたしを甘やかしている
(まるちゃん風にもう一度読んでみて まるちゃんの声が聞こえてくるから)




こんなふうに 心に染み込んだ声(癖)ってなかなか変えられない
もう波平の声しか聞こえない





この地球で自分の努力でしなくちゃいけないことは

自分の心と体を整える とゆうことだけなんじゃないか と思った

役に立つ準備が整っていれば 

あとは 心の中に 情熱 とゆう形で

神様がやることを与えてくれる







物語の筋書きをたてなおすんだ




こんなに甘やかしていたら さらにダメになるんじゃなかろうか

なんて 波平さんが言っているけれど



それは 根深い 見当違いな思い込みだとわかった




スパルタに生きてきていると なまぬるいがはがゆい




なまぬるい愛情が ほんとうの心の薬になるのに











もう つらい はじゅうぶん










人生にリラックスするんだ



イメージ 1

                  (↑これとてもおいしい   いっきに3缶飲みたい)










※「  場面緘黙(ばめんかんもく) とは

言葉を話したり理解する能力は正常であるにもかかわらず、
幼稚園・保育園や学校、会社などの社会的な状況で
声を出したり話したりすることができない状態を言います。
発話だけでなく、表情や動作での意思表示、動作表現も抑制される、
体が思うように動かせない緘動(かんどう)という状態になることもあります。
声の出しにくさ、話しづらさは、場所やそこにいる人、
活動内容によって違ってきます。
自分の意思で「わざと話さない」と誤解されることがありますが、
そういう状態とは全く異なります。
近年、「不安症や恐怖症の一種」と捉えられるようになってきました。
不安や緊張のために、本当の力を人前で発揮することができにくい状態 と言えます